分断策、そしてインターネットの闇から見えるもの
「高齢者は集団自決すれば良い」と発言して波紋を呼んだのはイェール大学アシスタント・プロフェッサーの成田悠輔氏。彼はさまざまなメディアや講演などで、高齢化社会への対応策として高齢者の「集団自決」「集団切腹」を繰り返し主張してきた。こんな恐ろしい選民思想が一部の若い世代には受け入れられている。
この他にも高齢化が急速に進んで、現役世代の社会保障負担が重くなっている日本では今、「老害」を訴えて若者の支持を得ている著名人が多数いる。
彼らの主張する、現役世代は税金や社会保険料などの負担が増えて生活が苦しくなっているのは高齢者の年金や医療費など社会保障費の出費が増え続けているからだ、という論を鵜吞みにしている者が多くなっている。彼らは後期高齢者の窓口負担が1割から2割になったことも「滅多に病院のお世話にならない自分たちが3割負担で、病院にかかるのが多い老人が今まで1割だったなんて許せない、もっと負担すべきで当然のこと」と歓迎している。
まあ、見事に政府が仕組んだであろう世代間の分断にまんまと乗せられているとしか思えないのだが、彼らには自分が将来高齢者になって病気にかかった時は自分たちもその負担をしなければならない、という思考は全く欠けており、今が良ければそれでよい、ということだろう。
この他にも少子化問題では「少子化は未婚女性や既婚者でも子供を産まないわがままな者がいるから、少子化対策の費用を多く負担すべきだ」などと結婚しない自由、子供を設けない自由などは無いような人権無視ともとれる発言する者もおり、これは子供を持つ者と持たない者の分断を生む。労働者の間には正規雇用と非正規雇用の分断、公務員と私企業労働者の分断などが存在する。
江戸時代に士農工商、さらにその下が存在した身分制度が始まるがその時以降、権力者が被支配者層の不満をそらすのに言っていたのは「上見て暮らすな、下見て暮らせ」であった(元々は浄土真宗の宗祖親鸞の言葉でそういう意図ではなかったようではある)。
仮想敵を創造し、不満をそらすというのはいつの世でも常套手段である。本当の敵は自分の横にいるのではない、上にいるのだ。
ただ、以前と違うのは、自己の意見を公に述べる手段が放送や出版物が主であった時代は意見を述べる者も機会も限られていてそれらを誰かがチェックすることができたのだが、ネット全盛時代となり、誰もが自由に世界に向けて発言(放言)ができるようになり、その内容がトンデモ理論であってもチェックが追い付かずに広範囲に蔓延する危険な事態が非常に増えていることである。
医療界に関係する話題で一つ例に取るとマイナ保険証がそれに該当する。ネット上で蔓延している意見の中に「マイナ保険証に反対する医者が結構いるみたいだけど、今どきIT化についていけないよう医者なら退場してもらって結構」という声があるのは御存じだろうか。きっと都市部で若い医者のいる医療機関しか受診しておらず、過疎地で唯一の医療機関で一人きりで頑張っている高齢医師やそれを頼りにしている住民のことは頭にないのだろう。通常でもマイナ保険証はトラブルが多いうえに、先の能登半島地震でわかるように停電下ではマイナ保険証は全く使えない。従来の紙の保険証にはバックアップ機能の役割もあることが充分証明された。これだけでもマイナ保険証一本化はいかに愚策であるかわかるであろう。それでなくても従来の紙の保険証で現場は全く困っていないのである。
1月の保団連大会で当会から発言を行ったが、我々は発信者の公私に関係なく「世論操作」や「分断策」には真っ向からたたかう姿勢が必要である。(2024年会報2月号「主張」)