「梯子を外す」誘導政策の行き詰まり
慣用的に使われる「梯子を外す」は、孫子の兵法の「高きに登りてその梯を去るがごとし〈如登高而去其梯〉」が語源という。上に立つものは、末端の兵たちに悟られることなく、戻りたくても戻れない決戦の場にその兵を誘導するべし、という指揮官の心得を弁じた一節である。しかし、その前提として、日頃から指揮官は、思慮深く公明正大で自分をよく律することのできる人物であることが必要と説く〈將軍之事、靜以幽、正以治〉。
現在の医療政策は、点数の決定が非常に誘導的で、加算という名の「エサ」を目の前に吊るしては、その方向に医療機関を向かわせて、大勢がそちらに流れたら、そのルールは要件に切り替える、という手法を繰り返している。入院中の他医療機関の受診、在宅訪問診療の同一患家の点数推移、回復期リハビリテーションにおける休日加算点数の推移、介護医療院への急性期病床の転換時の補助、「新型コロナ」の診療に関する各種臨時加算など、枚挙に暇がない。積年の保険点数削減で疲弊し、背に腹は代えられぬ医療機関の行動原理をよく理解した政策運用と言えよう。
しかし、最近では梯子をかけることすらせずに、いきなり梯子を外す政策決定も目立つ。
通信機器を用いた遠隔診療に関しての政策推移もその一つであろう。当初は離島や僻地における慢性疾患等の安定期患者の負担を減らす患者ファーストの理念から始まった。しかし、徐々に離島・僻地以外も取り扱いを可能としたり、あげくにはコロナ禍の混乱に乗じて初診からのオンライン診療も可能としようとする動きが出現し、反対しようにもすでに梯子は外されている、という状況。患者ファーストというよりは、(データ収集の)「効率化」、「医療費削減」のためと思われても仕方がない経緯となっている。
そして極め付けは、マイナンバーカード普及と保険証の廃止騒動。もはや、形振り構わず誘導した結果、各方面から問題が噴出中である。本来、新しいシステムを導入するときには、セキュリティの担保や運用時に予想されるトラブルの事前検討などを行い、慎重に導入するのが手筋である。ところが、「スピード感」を旗印に、すべてを置いてけぼりのままに大慌てて進んでいった結果、当会からも導入前に予想し指摘してきたトラブル(通信障害で患者情報が汲み取れなくなる可能性がある、個人情報の漏洩リスクとその対応の事前取り決めがない、など)が、案の定生じている、という体たらくである。誘導政策の信頼性を大きく損なう出来事であった。
大きな方向に国民を向かわせて、「梯子を外す」のが誘導政策なのであろうが、もはや語源の「兵たちに悟られることなく」はどこかに行ってしまっており、国民たちが「嗚呼、やっぱり。しかも、案の定失敗したか……」とため息をついている昨今の誘導政策。
ここは一つ、孫子の兵法にあるように、思慮深く公明正大に自己をよく律する姿勢で立法・行政を運営してみるのはどうであろう。
(2023年6月)